自衛隊の話をすると、聞かれるのはたいてい訓練のことである。きつかったか、しんどかったか、銃はどうだったか。
だが正直に言うと、私が今でもよく覚えているのは、そういうことではない。飯の味とか、公衆電話に並ぶ列とか、門から見送った同僚の背中とか、そんなことばかりである。
駐屯地の中には、ちゃんと暮らしがあった。今回はその話をまとめて書く。
飯は1日3食、全部和食だった
まず飯の話からいく。営内にいれば、食事は1日3食すべて出る。当たり前の話だが、これがありがたい。
意外に思われるかもしれないが、基本は和食中心である。パンと牛乳なんてものは、私の記憶では一度も出たことがない。
朝はこうだ。
- ご飯
- 味噌汁
- 生卵
- 納豆
THE・日本の朝ごはんである。昼と夜には、肉料理や揚げ物、魚料理といったおかずが付く。旬の食材が使われていることが多くて、**秋に出てきたサンマは本当にうまかった。**あれは今でも思い出す。
ご飯は白米と麦が半々に混ざったもの。ハーフアンドハーフであり、しかも量がかなりあって、おかわり自由である。体力を削られる毎日には、このボリュームが本当にありがたかった。
ちなみに、私たち下級隊員が使うのは一般食堂で、幹部の人たちには幹部食堂が別にあった。幹部食堂って言ってもただ横に併設されているだけなのだが・・・そっちはメニューが少し違って、いくらか豪華だった。まあ、そういうものである。
3か月だけ、作る側に回った
実は私、食事を作る側にいたことがある。
自衛隊には「糧食班」という、食事を作る担当がある。隊員が順番で回されるのだが、私も3か月ほどここに入っていた。
そこで分かったことが2つある。
**ひとつ、味は日によって違う。**作っているのが隊員だからだ。当たり前である。今日はうまい、今日はいまいち、というのは作り手の腕次第だった。文句を言っていた側が作る側に回ると、これがよく分かる。
**ふたつ、太る。自分たちで作っているので、試食し放題のような環境なのだ。おかげで私は3か月で5キロ太った。**中には10キロ以上大きくなる猛者もいた。あれはあれで才能やと思う。
消防隊と、化石みたいな消防車
糧食班と同じく、順番で回ってくる任務に「消防隊」もあった。
24時間体制で、3日勤務して1日休みというサイクル。仕事は夜間の見回り、消防設備の点検、放水訓練など。駐屯地の安全を守る任務なので、糧食班とはまた違った緊張感があった。
ここで書いておきたいのが消防車両である。
若い人は知らんと思うが、あれは「デコンプ車」といって、エンジンキーを回した後、足元にあるレバーを引き上げないとエンジンがかからないという代物だった。おまけに坂道発進を失敗するとエンジンが逆転するというオマケ付きでエンジンストップとなり、しばらくは掛からないという。
坂道発進ときの恐怖たるやナゼこんな車をいまだに使っているんだ!という感じで今では考えられない車だったのである。
おまけにハンドルは重い(重ステと呼ばれる)、切れない。窓は手でぐるぐる回さないと開かない。今から思えば完全な年代物である。今また乗る機会があっても、遠慮させていただくかな。
もうひとつの食堂と、売店
食堂の話に戻ると、実は大食堂のほかに、売店に併設された食堂があった。
こっちは自分でメニューを選べる。カレー、オムライス、スパゲッティといった洋食系が充実していて、サラダ類も豊富だった。和食中心の大食堂とは別の楽しみである。また、喫茶店的なものもありコーヒーなんかもよく飲んでいた。
売店は駐屯地内に3か所ほどあった。お菓子やジュースから、今でいう百均のような小物類まで、だいたい何でも揃う。しかも全店ツケがきく店だったので給料日にお金をかえしに行けていた。
そして自衛隊グッズも売っていた。中でもありがたかったのが、アイロン不要の作業服である。
というのも、支給される戦闘服は毎週月曜日にアイロンをかけないといけない。この作業が本当に面倒くさいのだ。だから金を出してでもアイロンのいらない服を買う。あれを考えた人は分かってはる。
散髪屋の横に、ゲームセンターがあった
駐屯地の中には散髪屋もあった。
新兵の頃は基本が坊主なのであまり使わなかったが、少し階級が上がるとたまに通うようになる。
そしてその散髪屋の横に、ゲームセンターのようなスペースがあった。今どきのゲーム機ではなく、喫茶店にあるようなテーブルゲームが並んでいる、レトロな空間である。今はもっと進化しているのだろうか。
隊員バーの決着は、腕相撲
駐屯地の中には「隊員バー」と呼ばれる場所もあった。
名前はバーだが、実態はほぼ居酒屋である。
ただし客は野郎ばかりだ。酒が入ると、たまに喧嘩っぽい空気になる。だが本気でやり合うことはあまりなかった。部隊に帰った後でめちゃくちゃ怒られるからである。
そこでどうするか。腕相撲で決着をつけるのだ。
決着がついたあとはみんなで仲直りすごく単純である。
我ながら、自衛隊らしいというか何というか。
公衆電話に、長蛇の列

私たちの時代には、携帯電話もポケベルもない。もしかしたらポケベルはあったかも知れない。忘れた!
駐屯地の中にはボックス型の公衆電話が4〜5台あったのだが、これがいつも長蛇の列である。理由は単純で、みんな彼女に電話するからだ。たまに家族かもしれないが・・・
テレホンカードを握りしめて、自分の順番を待つ。前の人が長いとイライラする。今の若い人には想像もつかん光景だろう。
季節ごとの行事もあった
娯楽が少ない環境だから、行事は貴重だった。
映画上映会が年に3回ほど。駐屯地の中で映画が観られるというだけで、なかなかの娯楽である。
**年末にはカラオケ大会。**駐屯地中から歌に自信のある隊員が集まってくる。賞品も結構豪華だった記憶がある。
クリスマスには隊員食堂でケーキが振る舞われた。男だらけのクリスマスではあるが、あれはあれで楽しみだった。
正月は、中隊を半分に分けて前期・後期の交代で休暇を取る。後期の組は大晦日や正月を駐屯地でまたぐことになるので、その分、おせち料理や餅など、結構いい食事が出た。
そして夏である。「海上非常訓練」という、いかにも厳しそうな名前の訓練があるのだが——
実態はほぼ海水浴やった。
訓練という名目の、貴重なレジャータイムである。あれを考えた人にも感謝したい。ただ海水浴にゴリマッチョの団体がいるのは異様な光景だったのは言わないでおこう。
休みは日曜だけ、土曜は半ドン
ここからは休日の話を書く。
私たちの時代、休みは週1回、日曜日だけだった。土曜は「半ドン」と呼ばれる半日勤務で、午前中だけ働いて午後は自由になる。
半ドンの日は、仕事が終わったらすぐ風呂に入れる。**あれがちょっとした楽しみだった。**些細なことだが、そういうことが嬉しい環境なのである。
外出は、申請して許可をもらうもの
外出したければ、事前に申請書を出さなければならない。
書く内容は「何月何日、何時から何時まで外出します」という簡単なものだ。だが**許可が下りなければ、門から出られない。**土曜の午後から日曜にかけての泊まりがけの外出もできたが、これも別に申請がいる。
しかも**外出できる人数には上限がある。**全員は出られない。当然、居残り組が出る。
そこで暗黙のルールがあった。**外出した人間は、居残り組に弁当を買って帰る。**これは誰が決めたわけでもないが、みんな守っていた。
門限は夜の9時か10時くらいだったと思う。彼女がいる者はデート、独り者は繁華街で飲む、実家が近い者は帰省。みんな若いので、限られた時間を目一杯使っていた。
外出禁止という、地味にこたえる罰
部隊で問題を起こすと「外出禁止」という罰が待っている。軽くて1か月、ひどい時は3か月。
正直に白状すると、私は比較的よく外出禁止をもらっていた。
一度だけ、完全なもらい事故もあった。中隊内で大喧嘩が起きて、約10名がまとめて外出禁止になった時のことである。私は止めに行っただけなのに、その中に入れられた。なんでやねん、と思ったが後の祭りである。
ちなみに首謀者は外出禁止どころか減給処分になっていた。よっぽどのことがない限り減給までは行かないので、相当ひどかったのだろう。詳しくは書けない。
門番の日の、あの切なさ
順番で、駐屯地の警備——いわゆる門番が回ってくることがある。
門番の日は当然、外出できない。そして門に立っているので、外出していく仲間たちを見送ることになる。
楽しそうに門を出ていく同僚を、敬礼で見送る。
あれは羨ましかった。ものすごく羨ましかった。あの切なさは、経験した人間にしか分からんと思う。
タバコと酒は、ステータスだった

最後にひとつ、時代の話を書いておく。
当時は**ほぼ全員がタバコを吸っていた。**時代的なものもあるが、あの環境ではタバコと酒が一種のステータスでカッコイイような位置づけだった。吸わない人間の方が少数派である。
褒められた文化ではない。だが、そういう時代だった。
ちなみに私は、今は酒もタバコもやめている。当時を思い出すと少しうらやましくもなるが、体のことを考えれば、こっちの方がいいに決まっている。と思う。
覚えているのは、こういうことばかりだ
こうして書き出してみると、自分でも驚く。
訓練の話をしろと言われれば、いくらでも出てくる。だが本当に覚えているのは、こういうことばかりなのだ。
秋のサンマの味。糧食班で太った3か月。腕相撲で決着をつける隊員バー。電話待ちの列。門から見送った背中。こんなどうでもいいアホな話ほど記憶に残っているのはナゼかわからんが・・・
人間というのは、しんどかったことより、こういう細かいことの方をよく覚えているものらしい。**あそこには、ちゃんと暮らしがあった。**それだけは書き残しておきたかった。
今日の一句
門番で 去りゆく人に 涙かな
ではまた!
※この記事は昭和末期の勤務経験にもとづく個人の回想です。現在の駐屯地の施設・制度とは異なる場合があります。


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